沖縄の捕虜収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:14 UTC 版)
沖縄戦で捕虜となった兵士や軍夫が収容されたおもな収容所。捕虜は尋問の後、日本人兵士、朝鮮人軍夫、沖縄人兵士、さらに将校と一般兵、それぞれに分けて収容された。米軍資料によると、1945年6月30日の時点で軍人7,401人、軍属3,339人、合わせて10,740人が捕虜となっていた。捕虜の数は後も増え続け、12月30日には16,346人となっている。 捕虜が増え続け沖縄島の収容所がひっ迫してくると、米軍はハワイの日系人収容所施設に捕虜を移送することに決定した。6月10日を第一陣として、沖縄の学徒兵を含む沖縄県出身兵3000人と朝鮮人軍夫がハワイ州のホノウリウリやサンド・アイランドの収容所に移送され、さらにそこからアメリカ本土の収容施設に移送されたケースもあった。 沖縄戦に関連する捕虜収容所本部 屋嘉捕虜収容所 金武町屋嘉 1 牧港捕虜収容所 浦添市 2 楚辺捕虜収容所※ 読谷村高志保 3 奥武山捕虜収容所 那覇市 4 小禄捕虜収容所 那覇市 6 普天間捕虜収容所 宜野湾市 7 嘉手納捕虜収容所 北谷町 ホノウリウリ収容所 ハワイ州オワフ島 サンド・アイランド収容所 ハワイ州ホノルル エンジェル島収容所とトレイシー サンフランシスコ ※ 楚辺捕虜収容所は、実際には読谷村楚辺ではなく、高志保のボーロー飛行場内にあった。 米軍は日本軍捕虜に那覇軍港などでの米軍物資や食料品等の荷役作業の労働力として使役していたため、引き上げのため収容所が小規模化すると、屋嘉収容所を閉鎖し、小禄捕虜収容所、奥武山捕虜収容所、嘉手納捕虜収容所などの収容所に捕虜を移送した。1947年2月に全捕虜の復員が完了すると、米国民政府は沖縄県民約2千人からなる「那覇港湾作業隊」を組織し、1947年5月1日、「みなと村」という特殊行政区を設置した。
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