江島生島事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:23 UTC 版)
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として上野・寛永寺、芝・増上寺へ前将軍・家宣の墓参りに赴いた。その帰途に木挽町(現在の東京都中央区東銀座。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島新五郎の芝居を見物する。江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。 大目付である久尚は、江戸中町奉行・坪内定鑑や目付・稲生正武らとともに関係者を徹底的に調べ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を理由に、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の異母兄の白井勝昌は斬首、弟の豊島常慶は重追放となった。江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩・内藤清枚にお預けとなった。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。風紀粛正のために、多数の連座者が出され処分を受けた。
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