殺めては拭きとる京の秋の暮
作 者 | |
季 語 | |
季 節 | 秋 |
出 典 | |
前 書 | |
評 言 | この句は幸彦の第四句集『鳥屋』に出る。私は幸彦の句集では『與野情話』と『鳥屋』に惹かれる。時代を濃密に生きた孤独な情念が恣意的なまでに言葉に跳梁していて、俳句に新しい領域を開いた。ここに挙げた句は、その意味で幸彦らしくない句といえるかもしれないが、切れ味の凄さはさすがと思う。 京都は保元・平治の乱以来、幾たびか権力闘争にからむ凄まじい戦場の場となった。とりわけ目を剥くのは、法住寺合戦で木曽義仲が、前日斬った六百三十余人の首を六条河原にかけ並べたことであろう。その中には天台座主明雲大僧正や圓慶法親王の首もあった。「これを見る人、涙を流さずと云うことなし」と『平家物語』にあるが、このような記述はその後も枚挙にいとまが無い。とりわけ五十年以上に及ぶ南北朝期は凄まじかった。その間京都が南軍に蹂躙されること四度、その度に六条河原におびただしい首が晒されたのである。当時の武士は戦功を上げることで恩賞を狙ったが、先陣を争うことや名のある武士の首をとることが求められる。首実検する必要があるので生首を持ち歩いたのである。それは獄門に晒されたり、六条河原に晒されたのである。新田義貞も晒された一人である。 京都は南北朝時代天皇が蒙塵することすらあったが、直ぐに回復し、王朝は続いた。民衆は涙を流し、目を背けても直ぐその後を取り繕い、きれいに拭きとって何事もなかったように元の姿を取り戻す。この句の凄さは、そのことを受けた「秋の暮れ」にある。秋の暮れは三夕の歌が示すように、斜陽に向かう王朝の美意識の頂点にある。ここでは人間の業の深さを鎮めるように置かれているのである。 |
評 者 | |
備 考 |
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