歴史上の政治的統治機構としてのアイリュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:57 UTC 版)
「アイリュ」の記事における「歴史上の政治的統治機構としてのアイリュ」の解説
ペルー領の多くやエクアドルなどの他地域は、クラカという用語が地域の首長の役職名として利用されている。スペイン人の記録文書には、カシーケという語も利用されているが、これはアラワク語で、先にスペイン人が占領した地域の用語をインカ帝国の説明に転用したものであり、本来は、地域の首長はケチュア語でクラカと呼ばれることが多かった。ボリビアの場合、ほとんどのアイリュが、1950年代に、コムニダー (コミュニティー)と名前を変えてしまう。 ボリビアやペルーはほとんどの地域で、スペイン人による征服後のレドゥクシオン(集住)政策により、伝統的な村落共同体は崩壊した。また、アシエンダと呼ばれる大土地所有制により、先住民たちは囲い込まれてしまっていた。それでも、その歴史の中でアイリュは再構成され継続された地域もあった。 また、ボリビアの高原地帯では、土地自体の貧しさや先住民の抵抗から、大土地所有制から外れた自由村と言える地域があったと伝えられており、そういった地域では地域の統治機構としてのアイリュは生き残っていたといわれている。現在でもオルーロ街道沿いには、ボリビア独立時に自由村であったことを誇りにしている共同体がある。スペイン統治以降、まったくスペイン系領主による統治を免れていたかは検証の余地があるが、自由村ということを現代まで誇りにしているということに意味がある。 北ポトシ地域の例は、さまざまな歴史的変遷をたどりながらも、例外的に残された貴重なアイリュである。北ポトシ(ケチュア系)では、アイリュの長をヒランク (Jilanqu) という。これは ヒラカタ (Jilaqata) がなまったものといわれている。先に挙げた17世紀初頭のBertonioの辞書にもヒランク (Jilanqu) という用語があり、ヒラカタ(Jilaqata) に同じと記されている。
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