歴代の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:30 UTC 版)
このようにして夏を打倒した天乙は諸侯に推挙されて王となった。亳に都を置いた。 4代目の王太甲は暴君であったため、伊尹に追放された。後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。 王雍己の時に、王朝は一旦衰えた。王雍己の次の王太戊は賢人伊陟を任用し、善政に努めたことで殷は復興した。王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。 中宗の死後、王朝は再び衰えた。王祖乙は賢人巫賢を任用し、善政に努め、殷は再び復興した。 王祖乙の死後また王朝は衰えた。王盤庚は殷墟(大邑商)に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。 王盤庚の死後にも王朝は衰えた。王武丁は賢人傅説を任用し、殷の中興を果たした。武丁の功績を称えて彼は高宗と称された。 武丁以降の王は概ね暗愚な暴君であった。王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し暴政を行った。そのため、周の武王に誅され(牧野の戦い)、殷はあっけなく滅亡した。 現代の考古学調査によると、殷は占いによって政治を行い、その為に多数の人身御供を必要とした。中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。これまでに(2012年現在)、少なくとも14000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、献上された人身御供であった。このような恐怖政治は他の多くの部族の反感を買い、やがて、周や微など東西南北の8つの従属国家が密かに連絡を取り合い、連携し、やがて紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついて、反乱、牧野の戦いで殷軍を撃破し、王朝は滅亡した。
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