椋橋総社と鯉とは? わかりやすく解説

椋橋総社と鯉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:56 UTC 版)

椋橋総社」の記事における「椋橋総社と鯉」の解説

その他、当神社には伝説がある。当社伝記に「遠き神代の昔、素戔嗚之尊が高天原から乗り神崎水門経て当地来られた」とあり又、里人伝説に昔行基菩薩がこの地に留まりし折、猪名川(現・旧猪名川)に板橋をかけて村人便に供しようとしたが、流れ速くなかなか成功しなかった。そこで当社の神に祈ったところどこからともなく数多く集まり並んで作ってくれたので無事、架橋工事終えることができた、以後行基村人とったり食べることを禁じた」とあり村人は昔から氏神お使いであるといって食べず得たはこの池に放し死んだ拝殿前の塚に埋めた。 又、旧猪名川挟み向かい側にある治田寺(兵庫県尼崎市戸ノ内町)も伝承があり戸ノ内の伝説が伝わる。「天平年間(約1250年前)、僧行基さまが諸国巡錫され、治田寺(じでんじ)に参籠するため対岸の庄本まで来られた時、折悪しく洪水のため旧猪名川かけられていた流されました。すると川の向こうから群れをなして集まり、その銀鱗で川の色が変わるほどでした。行基さまはの背に乗って川を渡りとなったため)、無事、治田寺に参籠することができました村人たちはこの光景驚き崇めそれ以降川の上18丁(約2000m)では食べたり殺したりしなくなったと言うことです。」(治田寺文書要旨) 又、当神社行われる秋の例大祭では、氏子中法被描かれたものが見られる。 元々、氏子地区であった現在の尼崎市東部(西荘)には、素盞嗚尊スサノオ)を主祭神とする素盞嗚神社須佐男神社が数社あり、各社太鼓台彫物社殿内に奉納されている絵馬などに幾つか見られ、かつて氏子離れした西荘、現在の尼崎市東部でも各地区で伝説継承されている。

※この「椋橋総社と鯉」の解説は、「椋橋総社」の解説の一部です。
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