椋橋城の推定地説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:56 UTC 版)
椋橋城の推定地は「日本城郭大系」によると、旧猪名川を東西に分立して、東椋橋庄、椋橋総社(大阪府豊中市庄本町)付近とする説と、西椋橋庄、治田寺(兵庫県尼崎市戸ノ内町)付近とする説がある。 椋橋城の文献上の初見は、文明2年(1470年)であるが、椋橋城は応仁年間以前に既に存在していたらしく、平安時代、多田源氏四十八砦の一つといわれている。応仁の乱の応仁2年(1468年)に西軍、山名宗全方の大内政弘が東軍、細川勝元側を椋橋に攻めている。次いで椋橋城の名は「細川両家記」などに見られ、さらに「信長公記」でも天正6年(1578年)、織田信長による荒木村重討伐の折に織田軍の池田勝三郎(恒興)、勝九郎(元助)、幸新(輝政)父子が築かれた砦の一つに入ったとされる記録があり、椋橋城の名が確認されているが、椋橋総社、治田寺ともに椋橋城があったとされる遺構は無く、推定地が、城跡として確定に繋がる資料も極めて曖昧で少ない。
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