棒術の伝承経緯
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『當田流太刀之型 由来・型目録・継承者』にある寺山竜夫が1966年(昭和41年)3月10日、当田流太刀(釼術)を青森県無形文化財に申請したときの控えによると、 「棒については、八戸藩に伝わった経緯については不詳。浅利伊兵衛の名が書かれているところから、津軽藩を経て伝わったことは間違いない。北村益が継承者。昭和九年北村益、船越勝江より習得した。明治の頃には弘前藩には絶えていたと思われる。演武した記録が見当らない。 「短い期間修練したので、八戸市に継承者が現存しているならば(中里氏〉そちらの考えも開きたい。今回は一応、参考資料として添附。演武の型は別の機会にしたい。」 とあり、寺山竜夫が学んだ当時の弘前には棒術は伝わっておらず、八戸で学んだものとある。 ただし実弟である浅利千秋によれば自分は父親の転勤で八戸で生まれたとのこと、父親は伝承しておらず北村益、祖父の弟子である関彦四郎からも棒術を習得したとのことである[要出典]。 浅利伊兵衛以降の當田流の免許者は何人いて、どこで教授したかあきらかでないので、各地に伝承された系譜も不明な物が多い。「津軽弘前藩の武芸 中巻」で太田尚充は、八戸藩に伝わった當田清見流棒術の1891年(明治24年)の伝書の伝系を紹介している。それによると、浅利伊兵衛までは同じであり、その後は 斎藤弥五兵衛尉 鈴木長左衛門 大関大弥太 小山勇 遠藤多七郎 太田喜満多 佐藤萬次郎 前田武 三上正淳 となっている。ただし、この系統が寺山龍夫が八戸で北村益らから学んだ系統と同じかは不明である。 棒の長さ、捌き、鍛錬法は総合武術である當田流独特なもので口伝による極意は、型演武することはできない。
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