棒術の伝承経緯とは? わかりやすく解説

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棒術の伝承経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 17:58 UTC 版)

當田流」の記事における「棒術の伝承経緯」の解説

當田流太刀之型 由来・型目録継承者』にある寺山竜夫1966年昭和41年3月10日当田流太刀(釼術)を青森県無形文化財申請したときの控えによると、 「棒については、八戸藩伝わった経緯については不詳浅利兵衛の名が書かれているころから津軽藩経て伝わったことは間違いない北村益継承者昭和九年北村益船越勝江より習得した明治の頃には弘前藩には絶えていたと思われる演武した記録見当らない。 「短い期間修練したので、八戸市継承者現存しているならば(中里氏〉そちらの考え開きたい今回は一応、参考資料として添附演武の型は別の機会にしたい。」 とあり、寺山竜夫学んだ当時弘前には棒術伝わっておらず、八戸学んだものとある。 ただし実弟である浅利千秋によれば自分父親転勤八戸生まれたとのこと父親伝承しておらず北村益祖父弟子である関彦四郎からも棒術習得したとのことである[要出典]。 浅利兵衛以降當田流免許者は何人いて、どこで教授したかあきらかでないので、各地伝承され系譜不明な物が多い。「津軽弘前藩武芸 中巻」で太田尚充は、八戸藩伝わった當田清見棒術1891年明治24年)の伝書伝系紹介している。それによると、浅利兵衛までは同じであり、その後斎藤弥五兵衛鈴木左衛門 大関弥太 小山勇 遠藤多七郎 太田喜満多 佐藤萬次郎 前田三上正淳 となっている。ただし、この系統寺山龍夫八戸北村益らから学んだ系統と同じかは不明である。 棒の長さ捌き鍛錬法総合武術である當田流独特なもので口伝による極意は、型演武することはできない

※この「棒術の伝承経緯」の解説は、「當田流」の解説の一部です。
「棒術の伝承経緯」を含む「當田流」の記事については、「當田流」の概要を参照ください。

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