校舎火災と藤谷への移転とは? わかりやすく解説

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校舎火災と藤谷への移転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 14:41 UTC 版)

志摩市立的矢小学校」の記事における「校舎火災と藤谷への移転」の解説

1941年昭和16年)、「的矢村国民学校」に改称する1942年昭和17年2月火災発生し校舎大半焼失するという被害を受ける。これにより、5・6年生が学区内的矢三ヶ所渡鹿野公共施設個人宅借用した教室分散して授業を受けざるを得なくなった火災契機的矢村では的矢地区藤谷海面埋め立て新校地を整備することを決め1942年昭和17年12月起工式挙行1944年昭和19年9月校地整地着手するも、太平洋戦争中であったため、校舎建設は遅れることとなった終戦後1946年昭和21年3月、ようやく新校舎起工式が行われ、同年11月3日落成式挙行され藤谷移転した1947年昭和22年)、的矢村的矢小学校改称、翌1948年昭和23年7月5日からミルク給食開始された。同年PTA結成される1955年昭和30年)には磯部町的矢小学校改称する磯部町となって以降1964年昭和39年)に文部省指定家庭学級開講され1966年昭和41年)に三重県教育委員会指定視聴覚教育研究発表会開かれるなどした。施設整備行われ1956年昭和31年)に2教室増築された。1972年昭和47年4月17日磯部町学校給食センター磯部小学校内に開設され的矢小学校でも完全給食始まったこの年的矢小学校は「準へき地校」に指定される。そして1974年昭和49年2月25日創立百周年記念式典開かれ、『的矢小学校百周年記念誌』も発行された。

※この「校舎火災と藤谷への移転」の解説は、「志摩市立的矢小学校」の解説の一部です。
「校舎火災と藤谷への移転」を含む「志摩市立的矢小学校」の記事については、「志摩市立的矢小学校」の概要を参照ください。

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