栄町への移転と百貨店化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 08:33 UTC 版)
「十一屋 (名古屋)」の記事における「栄町への移転と百貨店化」の解説
1915年(大正4年)11月に第11代小出庄兵衛は栄町4丁目(現在の栄町ビルの場所)に木造2階建ての店舗を建設して移転し、いとう呉服店(後の松坂屋)と合わせて名古屋の有力呉服店が本町から栄町へ競争の場を移す形となった。 1919年(大正8年)には木造4階建て洋風建築の店舗を建設して拡張し、店舗の運営形態を百貨店形式へ変更した。 その後、1921年(大正10年)には、鉄筋コンクリート造り5階建てに改築し、さらに名古屋市で開催された汎太平洋平和博覧会の開催を控えた1936年(昭和11年)10月1日には鉄筋コンクリート造り地上7階・地下2階建てに増築を行って売場面積約9,900m2とするなど増改築を重ねて規模を拡張した。 この間に店舗の建物の近代化のみならず、東区の少年寄宿舎と昭和区御器所町の青年寄宿舎を開設して商品知識や販売技術など実務教育を行うようにしたり、1922年(大正11年)11月11日に資本金100万円で株式会社十一屋として法人化するなどの経営面での近代化も並行して進められた。 なお、こうした百貨店への進出や株式会社かなどの改革を推し進めた第11代小出庄兵衛は、繊維商社瀧定の滝定助の四男定四郎として生まれて小出家に婿養子として入り、第11代を襲名しており、瀧定助と従兄弟で同業の繊維商社タキヒョーの瀧兵右衛門とも繋がる尾張の繊維関連の縁戚関係の一翼を担う人物であった。
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