柱頭の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 06:12 UTC 版)
「アショーカの獅子柱頭」の記事における「柱頭の発見」の解説
獅子柱頭の存在に関しては中世の中国の巡礼者が文献に書き残していたものの、インド高等文官のエルテル(英語版)が1904年頃に訪れたときにはサールナートの地上にはそれらしき痕跡はなかった。エルテルは実際の考古学的調査の経験は持っていなかったが、サールナートの発掘調査を許され、1904年か1905年の冬にこの地を訪れている。彼はまずメインのストゥーパの西側でグプタ朝時代の寺院の痕跡がアショーカ王時代の構造物と折り重なっているのを発見した。そのさらに西側で件の石柱の一番下の部分を見つける。これは直立した状態ではあったもののほとんど地面の高さで折れていた。この痕跡の付近3箇所からほぼすべての柱のかけらが見つかったが柱頭は見つからなかった。この時点では柱頭の存在がはっきりしていたわけではないが、1851年にはサーンチーで獅子柱頭が見つかっていたので、エルテルらはサールナートでも同様の柱頭が見つかるものと期待して捜索を続けた。そして実際に近くから獅子柱頭が見つかった。サールナートの物はサーンチーで見つかったものよりも状態が良く、もともとの彫刻の品質も高かった。この石柱はその状態から、いずれかの時点で意図的に破壊されたように思われた。この発見は重要性が認められインドで初めての現地の博物館が併設され、柱頭もそこに保存されるに至った。現地の博物館は当時は世界的に見ても珍しいものであった。
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