松永和風とは? わかりやすく解説

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まつなが‐わふう【松永和風】

読み方:まつながわふう

長唄唄方。

[一]3世)[1839〜1916清元節回し取り入れた芸風で、好評博した。「和」の字を用いた

[二]4世)[1874〜1962美声と独特の節回しで、昭和初期一世風靡(ふうび)した。


松永和楓

(松永和風 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/26 01:28 UTC 版)

松永 和楓(まつなが わふう)は、長唄の名跡。4代目のみ「和風」と漢字表記を変えた。

初代

(生年不詳 - 文化5年(1808年))

松永流の開祖。水戸の生まれ、松島茂平次の門弟の松永忠五郎1795年に和楓と改名。

1774年には江戸市村座「二人椀久」で立唄で好評を得る。

2代目

天保10年(1839年) - 安政4年(1857年5月11日

1811年に2代目芳村伊三郎門下の芳村源太郎が2代目忠五郎を襲名。後和楓となる。

3代目

天保10年(1839年) - 大正5年(1916年10月15日)本名は保坂鉄太郎。

実家は江戸日本橋の鮨屋。元は清元出身で清元叶太夫。5代目忠五郎の女婿になり長唄に転進し6代目松永鉄五郎1874年に新富座で立唄。1877年に7代目忠五郎、1880年に3代目和楓を襲名。長唄に独特の清元の節回しを取り入れ活躍。1888年には中村座の囃子頭。晩年は9代目市川團十郎との不和で劇場を去り1897年に東京長唄組合に組織もうまくいかず引退。團十郎没後は松永鉄翁を名乗り明治座の立唄となった。「松永和楓日記」は明治時代の長唄を知る上で貴重な文献として伝えられている。篠田鉱造「明治百話」(岩波文庫)に和楓の記事あり、「唾玉集」(平凡社に復刻あり)に和楓談話あり。1913年に完全に引退し骨董屋を開いた。「鞍馬山」SPレコードが数種残されている。

4代目

四代目南風(1948年)

明治7年(1874年2月18日 - 昭和37年(1962年9月26日)本名は吉田定次郎。

東京神田の生まれ、鉄道官吏をやっていたが長唄に転進し当初は三味線2代目稀音家六四郎(後の6代目杵屋彌十郎)、17歳頃には3代目杵屋勝太郎に師事。はじめ勝造、東京座の開場式に出演している、後唄方に転じ、3代目和楓の門下となって松永和幸を名乗った。その後一門を12代目杵屋六左衛門の植木店派に移籍し中村瓢二となったが、植木店派も離れて永五郎、鉄之丞などのを名乗る、一時劇場を撤退も復帰し5代目芳村孝次郎を襲名。歌舞伎座の鶴命会に参加し活躍。1929年12月に4代目和楓を襲名し松永家家元となった。1931年に漢字表記を和風とした。大正から昭和にかけて多くのSPレコードを残す。養子が9代目鉄五郎。墓所は雑司ヶ谷霊園



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