松平忠吉 (桜井松平家)とは? わかりやすく解説

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松平忠吉 (桜井松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:11 UTC 版)

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松平忠吉
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年
死没 天正10年6月24日1582年7月13日
別名 通称:與次郎[1]
神号 与呂豆伊加志男命[注釈 1]
戒名 本性院殿法誉一岳道隣大居士
墓所 桜井山菩提寺愛知県安城市桜井町)
主君 徳川家康
氏族 桜井松平家
父母 父:松平家次
兄弟 忠正忠吉、忠広、菅沼定盈継室
多劫姫久松俊勝娘)
信吉忠頼
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松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将桜井松平家5代当主。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。

略歴

安城市の菩提寺にある桜井松平家歴代の墓所。忠吉の墓は左端。

松平家次の次男として誕生した。

天正5年(1577年)、当主であった兄・忠正が死去し[1]、忠正の嫡子・家広(亀千代)はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ[1]

天正9年(1581年)の高天神城攻めに従い[1]、諏訪原に出城を築いて守るなどの軍功を挙げた[1]。高天神城攻めでの功績にを受け、桜井と東条の間で紛争となっていた400石の地が加増された[1]。のちに改めて尾張国品野で2000石の地を与えられたという[1]

天正10年(1582年)6月24日、24歳で死去した[1]。家督は家広が継いだが[1]、家広は依然幼少であるために、忠吉の弟の忠広が後見となり、同年の甲斐攻め(天正壬午の乱)にも忠広が従っている[1]

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]

『寛政重修諸家譜』では子の筆頭の位置に遺跡相続者として松平家広(多劫姫と忠正の子)を置いている[1]。長男[注釈 2]信吉は、松平信一の婿養子となって藤井松平家の家督を相続した(上野国高崎藩主、次いで丹波国篠山藩主)。また、次男[注釈 3]忠頼は、家広の死後に家督を継いだ(武蔵国松山藩主)。

脚注

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注釈

  1. ^ よろづいかしおのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[2]
  2. ^ 『寛政譜』の藤井松平家・信吉の項には「実は松平与次郎忠吉が長男」とある[3]
  3. ^ 『寛政譜』の忠頼の項には「実は忠吉が二男」とある[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27
  2. ^ a b 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.38

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)



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