松代藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:35 UTC 版)
※この「松代藩」の解説は、「天正壬午起請文」の解説の一部です。
「松代藩」を含む「天正壬午起請文」の記事については、「天正壬午起請文」の概要を参照ください。
松代藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:19 UTC 版)
1752年に真田幸弘が藩主となると、家老の恩田民親(木工)らに藩政の刷新を命じた。木工は自ら率先して倹約を実行して、私利を貪らない姿勢を明らかにするとともに、領民には年貢の税率を常識とは反対に引き下げ、分割納入を認める代わりに完納を求めた。また、藩行政の効率化を進めて領民を苦しめる不正な役人や無能な役人を更迭した。木工の急死もあって財政改革は進まなかったと言われるものの、役人の意識改革と領民の藩政への信頼を取り戻す事に成功し、安定した財政基盤の確立と農村の荒廃を阻止して立て直しの方向に向かわせた。 だが、その後再度財政は悪化したため、幕府老中として天保の改革にも参与した藩主真田幸貫は、藩政改革を行うにあたり恩田貫実(頼母、木工民親の曾孫)を重用した。改革はある程度は成功したものの藩財政の回復には至らず却って奢侈の風潮を招いたと指弾されて、1851年保守派の真田貫通(志摩、号・桜山)が藩政を行った。だが、次の真田幸教の代に入ると後継者問題も絡んで大規模な内紛(1853年となり、志摩が失脚して頼母復帰、1862年頼母病死して志摩復帰)に至り、1866年には幸教は隠居してしまった。ちなみに頼母派のブレーンには藩士の蘭学者佐久間象山がいた。松代藩は明治維新の際にはいち早く尊王の立場を明確する。
※この「松代藩」の解説は、「藩政改革」の解説の一部です。
「松代藩」を含む「藩政改革」の記事については、「藩政改革」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から松代藩を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 松代藩のページへのリンク