松代藩出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 23:47 UTC 版)
文化7年(1810年)、松代藩主真田幸弘を診療するようになり、文化10年(1813年)7月、藩主に従い信濃国松代城下に赴任、文化11年(1814年)帰府し、真田幸専に御目見、衆分として扶持を賜った。 文化12年(1829年)4月火事に類焼し、赤沢大沢に転居した。文化12年(1815年)6月24日、坂幽玄より鍼術免許を与えられた。文政3年(1820年)5月勾当、文政4年(1821年)10月26日検校に昇った。文政5年(1822年)松代藩より20人扶持を賜り、溜池藩邸に住んだ。 文政5年(1822年)7月、文政9年(1826年)2月徳川治済、文政7年(1824年)1月24日徳川斉朝、10月24日徳川斉順を診療するなど、徳川御三家からも信任を得た。文政12年(1829年)岸村検校が死去し、当道座坊主の地位を継いだ。
※この「松代藩出仕」の解説は、「葦原検校」の解説の一部です。
「松代藩出仕」を含む「葦原検校」の記事については、「葦原検校」の概要を参照ください。
- 松代藩出仕のページへのリンク