東国国家論と権門体制論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
1960年代には2つの中世国家論が登場した。佐藤進一は鎌倉幕府を朝廷と並ぶ中世におけるもう一つの国家とする東国独立国家論を提唱。一方、黒田俊雄は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする権門体制論を明らかにした。しかし学界での評価は好対照で、1970年代には既に「権門体制論一色」といった状況であり、佐藤自身も少なくとも承久の乱までの鎌倉幕府は「朝廷の番犬として仕える権門体制的な状況」にあると認めざるを得なくなっていた。佐藤は1983年に『日本の中世国家』で鎌倉幕府を「中世国家の第2の型」として改めて東国独立国家論を提起するが、その要諦である両主制について研究者間での評価を得るには至らず、権門体制論との類似を指摘される結果に終わっている。こうして東国武家政権を中世社会の変革の推進力とする見解は淘汰され、権門体制論は21世紀においても有力な学説として重視されている。
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