東国原英夫との関係
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東国原の政界進出のきっかけを作り、政治・政策ブレーンとして東国原のブログやテレビ番組にもたびたび登場した。2003年夏の1ヶ月間、東国原と地方視察のフィールドワークに出かけた。その際、東国原の一番弟子である早川伸吾が「日本列島徒歩縦断」企画の真っ最中で、吉川敏夫(クロマニヨン吉川)と共に主要地点に激励に駆けつけた。平塚潤(城西大学陸上部総監督)の勧めで、20代後半からジョギングを始め、東国原と共に箱根駅伝の合宿に参加したこともある。 2008年9月10日、『芸能界特別授業! 私はこうして生き残りました!』(MBS/TBS系)で、東国原についてインタヴューを受け、松榮大(日本テレビ勤務)と共に思い出話を語った。 2009年6月23日、古賀誠(自由民主党選挙対策委員長)、伊達忠一(同副幹事長)に同行し、宮崎県庁を訪問。東国原国政転出問題で、双方をつなぐパイプ役として奔走したが、東国原の提示した条件が自民党に受け入れられず、合意に至らなかった。 東国原のブレーンとしてメディアに登場する機会が多いが、あくまでも政治・政策に関するアドヴァイスにとどまり、選挙参謀としての活動はしておらず、2011年の都知事選では東国原陣営に加わらなかった。
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