東北戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)
詳細は「会津戦争」を参照 8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、白虎隊の悲劇などが発生した。 9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏、22日に会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。 奥羽越列藩同盟諸藩の降伏後、行き場を失った水戸藩・諸生党を中心とする旧幕府方残党は水戸城に侵攻するが、10月1-2日の弘道館戦争で敗退した。旧幕府方残党は南に敗走し、10月6日、下総国匝瑳郡松山村付近の松山戦争で壊滅した。
※この「東北戦争の終結」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「東北戦争の終結」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。
- 東北戦争の終結のページへのリンク