村瀬玉田
村瀬玉田
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村瀬 玉田(むらせ ぎょくでん、1852年5月26日〈嘉永5年4月8日〉 - 1917年(大正6年)10月12日)は、明治から大正の日本画家。本名は榎清次郎(えのき かまじろう)。別号は彩雲亭(さいうんてい)。
四条派の流れを継ぐ実力者であり、写実的描写の山水花鳥を得意とした。代表作に「雉子図」、「柳鷺」など。
生涯
寛永5年(1852年)4月、山城国京都上京区頭町にて生まれる[1]。13歳で四条派の村瀬双石に入門し、のちにその養子となって村瀬徳温と名乗った[1]。また、漢学を宮原龍、和歌を渡忠秋に学んだ[1]。25歳頃に近江国、美濃国、尾張国、武蔵国、丹波国などの各地を巡遊した[1]。
1880年(明治13年)、京都府画学校の出仕となり、翌年の1881年(明治14年)の内国勧業博覧会で妙技3等賞を受賞した[1]。1882年(明治14年)の第1回内国絵画共進会で銅印を受賞し、1884年(明治16年)の第2回の同会では銅章を受章した[1]。同年に京都から東京に移って京都博覧会や東洋絵画共進会などで受賞を重ね、1900年(明治33年)のパリ万博、1904年(明治37年)のセントルイス万博、1910年(明治43年)の日英博覧会など海外の博覧会にも出品した[1][2]。御用画もたびたび描いており、皇室御用画も制作した[1][2]。
東都画壇でも技量が認められて龍池会に参加[2]。東洋絵画共進会の審査員に推挙された[2]。同展が日本美術協会へ移行した後も高位の受賞を重ね、審査員や委員を歴任して中軸を支える事となった[2]。また、帝室技芸員にもなっている[要出典]。
1917年(大正6年)10月12日に死去[1]。享年66[3]。墓所は東京都中央区築地の浄土真宗・築地本願寺の子院であった善林寺にある[4]。
脚注
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