村瀬玉田とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 村瀬玉田の意味・解説 

村瀬玉田

読み方むらせ ぎょくでん

四条派画家京都生。姓は、名は徳温、通称清次郎、別号彩雲亭。村瀬雙石門に入り、のち養子となる。山水花鳥能くし、皇室宮内省御用命をしばしば受けた大正6年1917)歿、66才。

村瀬玉田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/29 02:33 UTC 版)

村瀬 玉田(むらせ ぎょくでん、1852年5月26日〈嘉永5年4月8日〉 - 1917年(大正6年)10月12日)は、明治から大正日本画家。本名は榎清次郎(えのき かまじろう)。別号は彩雲亭(さいうんてい)。

四条派の流れを継ぐ実力者であり、写実的描写の山水花鳥を得意とした。代表作に「雉子図」、「柳鷺」など。

生涯

寛永5年(1852年)4月、山城国京都上京区頭町にて生まれる[1]。13歳で四条派の村瀬双石に入門し、のちにその養子となって村瀬徳温と名乗った[1]。また、漢学を宮原龍、和歌渡忠秋に学んだ[1]。25歳頃に近江国美濃国尾張国武蔵国丹波国などの各地を巡遊した[1]

1880年(明治13年)、京都府画学校の出仕となり、翌年の1881年(明治14年)の内国勧業博覧会で妙技3等賞を受賞した[1]1882年(明治14年)の第1回内国絵画共進会で銅印を受賞し、1884年(明治16年)の第2回の同会では銅章を受章した[1]。同年に京都から東京に移って京都博覧会や東洋絵画共進会などで受賞を重ね、1900年(明治33年)のパリ万博1904年(明治37年)のセントルイス万博1910年(明治43年)の日英博覧会など海外の博覧会にも出品した[1][2]。御用画もたびたび描いており、皇室御用画も制作した[1][2]

東都画壇でも技量が認められて龍池会に参加[2]。東洋絵画共進会の審査員に推挙された[2]。同展が日本美術協会へ移行した後も高位の受賞を重ね、審査員や委員を歴任して中軸を支える事となった[2]。また、帝室技芸員にもなっている[要出典]

1917年(大正6年)10月12日に死去[1]。享年66[3]。墓所は東京都中央区築地浄土真宗築地本願寺の子院であった善林寺にある[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 20世紀日本人名事典『村瀬玉田』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 村瀬玉田:静涯師事”. 2025年10月28日閲覧。
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『村瀬玉田』 - コトバンク
  4. ^ 松籟山善林寺|越前朝倉家の武士真柄十郎左衛門の孫が開基”. 2025年10月28日閲覧。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村瀬玉田」の関連用語

村瀬玉田のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村瀬玉田のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村瀬玉田 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS