有圏点字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:07 UTC 版)
1632年(天聡6年)、ヌルハチの子ホンタイジ(皇太極)が部下のダハイ(中国語版)(達海)に命じて文字表記の改良を指示した。ダハイは従来の表記に加えて文字の横に点や丸(圏点)を添えて、満洲語の一音が一文字で表記できるよう改良した。ダハイにより改良された表記を「有圏点字」と呼ぶ。 清代には満洲文字は「清文」または「国書」と呼ばれ、モンゴル文字、漢文と共に三体と呼ばれた。三体は公用文字として公文書には必ず用いられたが、実生活には北京では清代の中葉から漢字で書かれた文献が優位になっていた。このため、西太后らは満洲文字をほとんど理解できなかった一方、漢文は理解できたという。その一方で漢字圏以外の清の支配地、すなわちモンゴルや新疆、チベットで通用する共通文字は清崩壊まで満洲文字であった。 また民間の漢人は満洲語と満洲文字の習得は禁止されていた。漢人で満洲語と満洲文字を学ぶことを許され、中央政治に参加できたのは科挙合格者の状元と榜眼のみであった。満洲文字と漢文が併記された公文書の場合、内容が満洲文字の文章の方が漢文の文章よりも詳細に記述してあることが多く、また、清朝初期の記録は満洲文字でしか残っていないため清朝史研究の上では非常に重要な文字である。
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