曲の製作・公開までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 00:46 UTC 版)
「さらばハイセイコー」の記事における「曲の製作・公開までの経緯」の解説
1974年11月、年末の有馬記念を以てのハイセイコー引退が決定し、この頃に企画が立案された。競馬実況アナウンサーの小坂巌が、『週刊競馬報知』に執筆していた連載で、増沢の歌唱力の高さを幾度か取り上げていた(企画立案のきっかけでもあった)ことから、小坂を介して増沢に話が持ち込まれた。当初増沢は渋っていたが、レコード会社の担当者からも説得されて歌手を引き受けた。小坂は作詞を担当し、作詞家の山田孝雄が補作を行った。歌手と主作詞者が素人であり、曲も猪俣が「サッと作った」ものであったため、小坂はヒットの自信はなかったとしている。 曲が一般に向けて初公開されたのはレコードが発売される前、フジテレビが行っていた有馬記念の中継で、ハイセイコーが入線した直後に、そのBGMとして流された時だった。この競走でハイセイコーは2着であったにも関わらず、カメラは5馬身差で圧勝したタニノチカラを無視してハイセイコーを映していた。小坂はこの演出によって曲の人気に火が点いたのではないかと語り、フジテレビの担当ディレクターへの感謝の念を口にしている。タニノチカラに騎乗していた田島日出雄によれば現地の観客スタンドにも流されていたといい、「なんだ、あれは!勝ったのはオレのタニノチカラなんだぞ。ふざけるな、バカ野郎、チェッといって舌打ちしたことをおぼえているね!」と振り返っている。 レコードは年明けの発売後から売上げを伸ばし始め、増沢は騎手業のかたわら数々の歌番組に出演した。
※この「曲の製作・公開までの経緯」の解説は、「さらばハイセイコー」の解説の一部です。
「曲の製作・公開までの経緯」を含む「さらばハイセイコー」の記事については、「さらばハイセイコー」の概要を参照ください。
- 曲の製作公開までの経緯のページへのリンク