智恵内子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 智恵内子の意味・解説 

智恵内子


智恵内子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 14:49 UTC 版)

智恵 内子(ちえ の ないし、延享2年〈1745年〉 - 文化4年6月20日1807年7月25日[1][2][3])は、江戸時代中期の狂歌師、戯作者。本名は内田 すめ、あるいは[4][5]天明狂歌の第一人者である元木網(大野屋喜三郎)は夫[2][3]

概要

武蔵国川越小ケ谷の人[5]江戸京橋北紺屋町で湯屋を営む文人町人・大野屋喜三郎と結婚[注釈 1][2][7]。娘に幾地内子がいる[8]明和6年(1769年)頃に夫が江戸狂歌壇に加わったころより彼女もまた狂歌を嗜み、夫の主宰する落栗連に属する。天明元年(1781年)夫の隠退と西久保土器町への転居に伴い、夫とともに鹿津部真顔ら数寄屋連を始めとする町人たちに狂歌をよく指導し、江戸天明狂歌を牽引した[8][2]

朱楽菅江の妻・節松嫁々とともに当代随一の女流狂歌師として知られ、またひまの内子・世話内子とともに江戸の三内子と呼ばれた。『狂歌若葉集』『万載狂歌集』『新古今狂歌集』に多数が入集している[2][8][4][3]。その作風は日常生活の姿を歌に反映させようとする「女性らしさ」と、狂歌の一要素でもある滑稽さを退け得意の古典志向を用いる「品の良さ」が挙げられる。狂名の「内子」も「智恵の無い」にかけて、古典文学より「内侍」に由来するものだろう[9][10][8][2][11]。戯作者としては狂文をよくし、『狂文宝合記』では入集作に加えて序文を寄稿。また未刊行の作に『たぬきの草紙』がある[12]

晩年は女婿・小川平七の飯倉の邸に住んだ[11]文化4年(1807年)孫婿・岸本由豆流白銀町の邸宅で死去。正覚寺に葬られる。法名は芳春院園誉妙栄大姉[8][4]

関連作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 結婚の年次は不明だが、喜三郎には宝暦13年(1763年)に夭折した女子がいるため、この生母だとすればこの頃までには結婚していたことが想定できる[6]

出典

  1. ^ 浜田「智恵内子」『日本古典文学大辞典』1985年、1205頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12450465/1/608?keyword=智恵内子 
  2. ^ a b c d e f 園田 1994, § 智恵内子.
  3. ^ a b c 『日本人名大辞典』, § 智恵内子.
  4. ^ a b c 高群 1980, p. 349.
  5. ^ a b 『川越の人物誌』, p. 24.
  6. ^ 小林 2001b, p. 29.
  7. ^ 園田 1994, § 元木網.
  8. ^ a b c d e 浜田 1986.
  9. ^ 小林 2001a, p. 20.
  10. ^ 小林 2001a, pp. 23–25.
  11. ^ a b 『狂歌』, p. 548.
  12. ^ 小林 2001a, p. 22.

参考文献



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「智恵内子」の関連用語

智恵内子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



智恵内子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの智恵内子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS