晩期の大山崎油座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
16世紀に入っても大山崎油座の権益を守る幕府の姿勢は表向きは維持され、文亀2年(1502年)油座には従来通り関銭・津料の免除が保障され、他商人の油取引を停止する禁令などもたびたび出されている。しかし京都で争乱が常態化し、将軍・管領さえも在京しない時代となると、これら幕府の通達も実効性を伴わないものとなっていた。天文17年(1548年)にも13代将軍足利義輝、永禄11年(1568年)には15代将軍足利義昭による関銭津料諸役免除の安堵状が出されているが、すでにこれらにより大山崎が他の商人に優越する地位を強化することは不可能であった。永禄12年(1569年)には幕府から油場銭を徹底させつつも、警固の網を抜けて京都へ流入する油の存在を認めた文書があり、京都油市場の混乱を物語っている。 幕府の衰退にもかかわらず、こうした度重なる新儀商人の排除要求や大山崎の特権保障要求が出されたことは、大山崎油座が独占していた広域灯油市場が、じわじわと新儀商人に蚕食されていったことを雄弁に物語っている。その傾向は他商人排斥の対象範囲が、次第に京都周辺に限られてくることからも明らかである。これは大山崎油座が結局他商人の根絶に失敗し、その擡頭の前に屈したことを意味する。京都市場すら死守できなくなった大山崎油座は油場銭を徴収する代わりに他商人が製造した油の京都搬入を認めるなど、現状追認の弥縫策で凌ぐようになっていった。こうした16世紀の大山崎神人の活動は、その特権を保障してくれていた朝廷・幕府の衰微と軌を一にして、荏胡麻油の仕入れ・製造・販売を一手に担う総合的商人から、単なる徴税権利者に没落していく過程であった。
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