春日座の時代
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1908年(明治41年)12月9日、京都府京都市上京区の東堀川通下長者町東北角二町目に寄席の春日座として開館する。同地は、明治初期にはすでに商家が軒を連ね、明治中期には小売店・飲食店が大半を占め、上京区内では最初の商店街の様相をなし、やがて堀川京極(堀川通の丸太町 - 中立売間)と呼ばれるようになった繁華街の一角であった。1895年(明治28年)9月24日にはすでに京都電気鉄道中立売線(のちの京都市電堀川線)が開通しており、同館の至近に堀川下長者町電停があった。 1912年(明治45年)1月10日付の『京都日出新聞』の記事によれば、当時の京都市内の劇場・寄席は57館とし、警察署の管轄ごとに発表しており、同館は中立売警察署(2007年に西陣警察署と統合、現在の上京警察署)管轄であり、「俄芝居」に分類されていた。同署管轄ではほかに、松之木座(仁輪加)があった。同年1月13日付の同紙の記事によれば、当時の京都市は「劇場」「興行場」「寄席」の3つに分類・等級分けして納税額を決めており、同館は「寄席」に分類され、松之木座、福廼家(のちの西陣大映)等とともに「七等」とされて年額52円(当時)の税金を課せられた。西陣地区の「寄席」分類では西陣電気館、長久亭(のちの西陣長久座)がそれぞれ「三等」「五等」に分類されていた。1914年(大正3年)8月には、吉本興業の林正之助が京都の寄席に萬歳をブッキングして回った際に、長久亭、紅梅館(西堀川通丸太町上ル)、大宮館(大宮通中立売上ル)、国技館(のちの京都国技館、千本通三条)とならんで同館を選んでいる。
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