明清代の海上貿易
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中国ではボルネオ島を通ってモルッカ諸島へ行く香料貿易のルートが知られており、東洋航路と呼ばれた。明の文人の張燮は商船員からの情報をもとに『東西洋考』を書き、ボルネオ島北部のブルネイは東洋の尽くる所、西洋の起る所と呼んでいる。元末から明にかけては、東洋と西洋の基準としてボルネオ島が用いられていた。明の時代には陶磁器がヨーロッパにも輸出され、中国の青花や日本の伊万里焼の影響を受けて、デルフト陶器やマイセン陶磁器などが作られた。 明が海禁を敷いている頃から牙行と呼ばれる仲買人の集団が活発となり、1567年に海禁が緩和されると、牙行から貿易や徴税の特権を得る者が出た。鄭芝竜はアモイや杭州を根拠地として5000隻の船を所有して財をなし、息子の鄭成功は台湾のオランダ東インド会社を攻撃して鄭氏政権を建国して、1683年に清が攻撃をするまで繁栄を続けた。清の成立当初は海禁政策がとられたが、中期以降はヨーロッパやアメリカと管理貿易が行われて広東貿易体制と呼ばれた。これはヨーロッパ商人との取り引きを広東に限定する制度で、1720年以降は広東十三行と呼ばれる特権商人のギルドが取り引きを独占した。
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