明時代初期の画家
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長江デルタ地帯に位置する蘇州では手工業が発達し、江南の商業・文化の中心地となって、元末期には多くの文人がここに集まっていた。至正16年(1356年)、張士誠は蘇州を根拠地とし、隆平府という名に改め、朱元璋(後の明太祖・洪武帝)に対抗して江南の覇権を争った。しかし、至正27年(1367年)に至って隆平府は陥落。翌至正28年(1368年)、朱元璋が即位して国号を大明とし、元号を洪武とした。猜疑心の強い性格であった朱元璋は、建国の功臣らを次々と粛清したことで知られる。貧農の出で孤児であった朱元璋は文人を憎み、特に、最後まで明朝に抵抗した蘇州の文人には容赦なく、多くの文人、画人が刑死・獄死に追いやられた。元末四大家の1人で、元初まで活躍していた王蒙は、胡惟庸の獄に連座して獄死した。元末から明初にかけて活動した山水画家の趙原も刑死している。明初の洪武年間には宮廷画院の存在は明確でなく、明の画院が本格的に形成されるのは後の永楽・宣徳年間(1403 - 1424年)になってからである。 以下に、元末から明初期に活動した主要な画家を掲げる(宮廷画家に分類される者については項を改めて述べる)。 趙原(ちょうげん、生没年不明) - 山東の人で、元末から明初に蘇州で活動した。洪武帝の時に刑死している。画風は元末四大家の王蒙に倣う。 王履(おうり、1332 - ?年) - 江蘇崑山の人。『華山図』(全40図、紙本墨画、北京故宮博物院・上海博物館分蔵)で知られる。本業は医学者で絵画は余技である。51歳の時に陝西の名山・華山に登り、その感動を40枚の絵に描きとどめ、自跋を付した。明代中期以降栄える呉派文人山水画の先駆として重要な作品である。 謝縉(しゃしん、生没年不明) - 江蘇呉県の人。董源、巨然、王蒙に師法した山水画を残した。 夏㫤(かちょう、1388 - 1470年) - 「㫤」の漢字は、正しくは「日」の下に「永」である。江蘇昆山の人。画竹をよくした。 杜瓊(とけい、1396 - 1474年) - 江蘇呉県(蘇州)の人。山水と詩文をよくした。呉派の祖である沈周に影響を与えている。 劉玨(りゅうかく、1410 -1472年) - 呉派の祖である沈周に影響を与えた。 王紱(おうふつ、1362 - 1416年) - 無錫の人。官に仕え中書舎人(主に能書が任命される)に任じられた。元末四大家の倪瓚風の疎体の山水を描く。 姚綬(ようじゅ、1422 - 1495年) - 浙江嘉善の人。画風は元末四大家の呉鎮に倣う。
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