明時代初期の画家とは? わかりやすく解説

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明時代初期の画家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「明時代初期の画家」の解説

長江デルタ地帯位置する蘇州では手工業発達し江南商業文化の中心地となって、元末期には多く文人がここに集まっていた。至正16年1356年)、張士誠蘇州根拠地とし、隆平府という名に改め朱元璋(後の明太祖洪武帝)に対抗して江南覇権争った。しかし、至正27年1367年)に至って隆平府は陥落。翌至正28年1368年)、朱元璋即位して国号大明とし、元号洪武とした。猜疑心の強い性格であった朱元璋は、建国功臣らを次々と粛清したことで知られる貧農出で孤児であった朱元璋文人憎み、特に、最後まで明朝抵抗した蘇州文人には容赦なく多く文人画人刑死獄死追いやられた元末四大家1人で、元初まで活躍していた王蒙は、胡惟庸の獄に連座して獄死した。元末から明初にかけて活動した山水画家の趙原も刑死している。明初の洪武年間には宮廷画院存在は明確でなく、明の画院本格的に形成されるのは後の永楽宣徳年間(1403 - 1424年になってからである。 以下に、元末から明初期活動した主要な画家掲げる(宮廷画家分類される者については項を改め述べる)。 趙原(ちょうげん生没年不明) - 山東の人で、元末から明初に蘇州活動した洪武帝時に刑死している。画風元末四大家王蒙に倣う。 王履(おうり、1332 - ?年) - 江蘇崑山の人。『華山図』(全40図、紙本墨画北京故宮博物院・上海博物館分蔵)で知られる本業医学者絵画余技である。51歳の時に陝西名山華山登り、その感動40枚の絵に描きとどめ、自跋付した明代中期以降栄え呉派文人山水画先駆として重要な作品である。 謝縉(しゃしん生没年不明) - 江蘇呉県の人。董源巨然王蒙師法した山水画残した。 夏㫤(かちょう、1388 - 1470年) - 「㫤」の漢字は、正しくは「日」の下に「永」である。江蘇昆山の人。画竹をよくした杜瓊(とけい、1396 - 1474年) - 江蘇呉県蘇州)の人。山水詩文よくした呉派の祖である沈周影響与えている。 劉玨(りゅうかく、1410 -1472年) - 呉派の祖である沈周影響与えた王紱(おうふつ、1362 - 1416年) - 無錫の人。官に仕え中書舎人(主に能書任命される)に任じられた。元末四大家倪瓚風の疎体の山水を描く。 姚綬(ようじゅ1422 - 1495年) - 浙江嘉善の人。画風元末四大家呉鎮に倣う。

※この「明時代初期の画家」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「明時代初期の画家」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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