旧SPD党員達の追放・迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:28 UTC 版)
「ドイツ社会主義統一党」の記事における「旧SPD党員達の追放・迫害」の解説
SEDではSPD・KPD合併後、最初期は統合時の合意に従い指導部の半分ずつが旧KPDと旧SPDであったが、1948年6月に英米仏が西側の占領地区だけで通貨改革を行い、これに対抗してソ連がベルリン封鎖を行うなど東西の両陣営が対立を深めるようになると、ソ連占領地区ではソ連モデルの押し付けが始まった。結党当初の「ドイツにおける社会主義の道」は徐々に否定され、民主集中制に基づくソ連共産党型の党へ移行していき、1949年には両党同等の原則が否定された。1948年から1952年にかけては旧SPDの党員の追放・迫害が行われ、最高指導部でも1950年には15人の政治局員中旧SPD党員は3人しか残っていなかった。さらに、1950年からは旧KPDの古参党員も追放された。これらを主導したのがウルブリヒトであった。 かつてのSPD党員の囚人達が、1971年に社会主義統一党中央委員会に宛てて書いた手紙には「五千人以上のかつての労働者運動の指導者たちが逮捕され、四百人以上がソ連占領地区の刑務所やソ連の強制収容所で死んだ」と書かれていた。 こうして、社会主義統一党は実態は共産党と変らない政党となっていった。ただ1946年当時存在していた政党としてはドイツ最古であったSPDは、全国に強力なネットワークを持っていたため、KPDが政権を掌握する上での利用価値は非常に高かったとされる。 このSPD・KPD合併のように、共産党が競合する社会民主主義政党左派を取り込んだのちに、社会民主主義政党出身者を粛清して共産党の独裁を確立するやり方はSED成立の後、ポーランド統一労働者党やハンガリー勤労者党など他の東欧社会主義諸国でも進められていくことになった。
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