旧陸軍演習場内圍壁
名称: | 旧陸軍演習場内圍壁 |
ふりがな: | きゅうりくぐんえんしゅうじょうないいへき |
登録番号: | 12 - 0041 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 基 |
構造: | 鉄筋コンクリート造、延長20m、鉄筋コンクリート造2階建付 |
時代区分: | 昭和前 |
年代: | 昭和9 |
代表都道府県: | 千葉県 |
所在地: | 千葉県習志野市東習志野4-15-6 |
登録基準: | 国土の歴史的景観に寄与しているもの |
備考(調査): | 旧陸軍習志野演習場南端近くに位置する演習施設。 |
施工者: | |
解説文: | 長20m,高3.3m,厚30cmほどの鉄筋コンクリート造壁と3m角平面の2階建望楼部から成る。壁体部には2段に銃眼が穿たれ,東寄りにアーチ状の入口を開ける。入口上部の扁額状銘板から年代と工兵第一大隊による築造が知られる。演習場遺構のひとつ。 |
その他工作物: | 旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔 旧東村花輪小学校今泉嘉一郎胸像所 旧鈍川小学校二宮金次郎像台座 旧陸軍演習場内圍壁 旧陸軍知覧飛行場着陸訓練施設鎮碇 旧陸軍知覧飛行場防火水槽 東京水産大学雲鷹丸 |
支那囲壁砲台
(旧陸軍演習場内圍壁 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/21 16:29 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動支那囲壁砲台(しないへきほうだい)とは、千葉県習志野市にある戦争遺跡である。「一望千里」と呼ばれた習志野原にあって、演習用に中国の家屋を模して作られた砲台のミニチュアであり、銃眼が開いている。習志野名所のひとつ。
2002年に国の登録有形文化財になっている。なお、正式な登録名称は旧陸軍演習場内圍壁(きゅうりくぐんえんしゅうじょうないいへき)である。
概要
この「支那囲壁砲台」は、現在の習志野市東習志野にあり、近くには中学校や体育館といった公共施設や住宅が建ち並ぶ。この「支那囲壁砲台」は、2006年現在も民家として使用されており、その住人は太平洋戦争後に開拓で入って、国から一町歩ほどの土地をもらって住み着いたのだという。昔は他にも廠舎などがあり、この「支那囲壁砲台」も一部削った部分もあるそうだ。
習志野原では近衛騎兵連隊、習志野に駐屯している第十三から十六の各騎兵連隊をはじめ、多くの部隊による演習が行われ、将兵の鍛練の地としてその名が知られていた。軍隊の演習では、予想される様々な状況を想定し、それに対応ができるように訓練が行われた。「支那囲壁砲台」も、その一種の施設で、中国での戦闘を前提に砲台に肉薄し攻撃する、あるいはその砲台を銃弾の標的にする訓練が行われたようである。囲壁の裏側には、階段状のものがあり、鎖がついている。あるいはその階段に上って、壁を這い上がる訓練をしたものか。
こうして、「支那囲壁砲台」で訓練した多くの兵士が、実際に中国戦線に送り出された。
「支那囲壁砲台」を作った工兵たち
この「支那囲壁砲台」は、昭和9年(1934年)に工兵隊によって建設されたと伝えられている。満州事変2年後で、日中戦争前夜ともいうべき当時、さらなる中国侵攻を企図する軍部の計画を実行するために、その準備が行われてきたが、この習志野でも相当訓練が積まれた模様である。
塀の裏側上部に「圍壁」の文字があり、よく見ると「昭和九年二月○六日」「工兵第一大隊○○隊○○以下三十六○(名か)」と判読しにくい箇所があるが、伝承通り昭和9年(1934年)に建設されたことが読み取れる。工兵第一大隊は、明治4年(1871年)に大阪で編成され、日清・日露両戦役に従軍、関東大震災の復興にもあたった部隊である。おそらく、建設した工兵たちが、その技量を誇らしげに文字として残したのであろう。その工兵第一大隊も、第一師団隷下の部隊として昭和11年(1936年)に中国東北部の孫呉に移駐、昭和19年(1944年)7月には師団とともにフィリピンレイテ島に渡り、米軍との激しい戦闘のなか、師団主力とセブ島へ脱出、セブ島で終戦を迎える。レイテに残った兵は、殆ど全滅に近かったという。
関連項目
外部リンク
- 支那囲壁砲台/千葉県の近代遺跡 - ウェイバックマシン(2013年4月23日アーカイブ分)
- 国指定文化財データベース – 旧陸軍演習場内圍壁
座標: 北緯35度41分42.09秒 東経140度4分30.71秒 / 北緯35.6950250度 東経140.0751972度
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