旧制汎愛中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 15:55 UTC 版)
「大阪府立汎愛高等学校」の記事における「旧制汎愛中学校」の解説
大阪市内では1930年代当時、中学校・高等女学校などの中等学校への進学希望者が増加し、入試難などの状態になっていた。 1900年に大阪府が打ち出した「大阪府教育十ヵ年計画」により、大阪市内での中等教育については、大阪府が普通教育学校中心、大阪市が実業教育学校中心とする役割分担ができていた。しかし大阪府全域で入試難などの状態が続き、府は郡部の学校増設を優先したことなどもあり、大阪市内の学校増設については、大阪府は市に協力を求める・大阪市の側も自前で設置したいと要望が出るなどの状況が生まれた。 それらのことを背景として、当時の大阪市は、中等学校の入試難を緩和するため学校の増設をおこなうことにした。その際、比較的児童数が少なく設備の充実している都心部の小学校(国民学校)を近隣校に合併させる形で統廃合して、空いた校舎を転用する方法で中等学校の校舎・校地を確保する施策をとった。 そのうちの一校として、汎愛小学校を廃校し校舎を転用して、大阪市立としては2校目となる中学校が設立されることになった。 1941年3月10日、修業年限5カ年の中学校を1942年度から開設することが認可された。1942年4月15日に大阪市立汎愛中学校として、東区淡路町に開校した。 校名の「汎愛」は旧汎愛小学校のものを引き継いでいるが、旧汎愛小学校の校名は懐徳堂に掲示されていた論語の文章「子曰、弟子入即孝、出即弟、謹而信、汎愛衆 而親仁、行有餘力、即以学文」から採用されている。
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