日本の名誉の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 04:16 UTC 版)
日本の中世では、個人や家系、所属集団の名誉を守ることが重要視され、名誉が傷つけられた場合には決闘や戦争等の解決手段がとられていた。武家社会では、切腹や仇討ちが、名誉回復の手段であった。江戸期にて、「栄誉罰」「名誉罰」等の言葉が使われているが、これらは、責任を果たせなかったときに制裁を加えられるという性質の「名誉」であり、各人の「栄誉」は法により保護されるべき利益であるという概念はなかった。 明治期に「名誉」を、法にて保護するべき利益の一つであるという概念が、確立した。瀬川信久によると、1882年(明治15年)以前には、日本で名誉回復を求める訴訟は行われておらず、1883年(明治16年)に行われた名誉回復を求める訴訟においては、告訴や報道による権利侵害で奪われた利益を「名誉」と呼んでおり、名誉という概念の存在、つまりは法により保護されるべき利益という概念が存在していたことを表す事例であるとしている。
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