日ノ浦本陣より江迎本陣まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 04:01 UTC 版)
「平戸往還」の記事における「日ノ浦本陣より江迎本陣まで」の解説
日ノ浦本陣は、平戸から渡ってくる大名行列の要員が平戸瀬戸を渡り切るまで待ち合わせるところである。朝より平戸からの渡航が始まり、昼前に全員が集合。昼過ぎより出発するスケジュールが多い。日ノ浦本陣は明治までに解体されて現存しない。一行は本陣裏の急坂を登りきり、台地上に進む。旅人から見下ろされないよう、本陣の裏手には塀が築かれており、これは現存している。台地上を東に向かい、笠松天神社付近で伊万里経由の平戸街道と分かれる。全国的には、伊万里・唐津経由の平戸街道の方が知られているが、地元では「唐津街道」と呼ばれることが多い。分岐すると台地上を南下し、本山一里塚を通過する。ほとんどの区間は市道として活用されているが、一部に廃道がある。この廃道の区間に、壱岐争奪戦に参加した対馬の宗采女一行が討ち死にした戦場跡があり、供養塔である対馬塔が建っている。廃道は江迎町境にまで達しているが、町境の手前の区間は、大正期に築造された溜池の底に水没している。渇水期には、かつて街道の並木だった松の切り株が水面に現れるという。江迎町内に入ると、宿場に向かって急坂を一気に下る。この坂は「長坂」と呼ばれ、自動車では一気に登れないため、県道228号線は連続ヘアピンカーブとなっている。長坂を下りきる少し手前には長坂一里塚があり、伊能忠敬が木星の観測を行おうとしたが、曇天のために断念した地点でもある。長坂を下り終えると江迎宿である。
※この「日ノ浦本陣より江迎本陣まで」の解説は、「平戸往還」の解説の一部です。
「日ノ浦本陣より江迎本陣まで」を含む「平戸往還」の記事については、「平戸往還」の概要を参照ください。
- 日ノ浦本陣より江迎本陣までのページへのリンク