新宮別当家と田辺別当家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 08:17 UTC 版)
保安4年(1123年)に長快が死去すると、新宮にいた次男の長範(1089年 - 1141年)が別当職を継承し、弟の長兼(長憲)を権別当として田辺近くの岩田(上富田町岩田)に配し、新宮には子の行範(1115年 - 1173年)を置いた。長範は、父の長快に続いて法印の地位に上った。さらに、天承元年(1131年)には宣旨により那智別当を兼ねるようになり、本宮・新宮に対し強い独立性を保持していた那智山を掌中に収めて熊野三山の統括組織を一体化するべく努めたが、那智山では大衆による自治運営が強力であったため、この時点では成功を収めるには至らなかった。 長範の死後、康治元年(1142年)に長兼が別当となり、弟の湛快(1099年 - 1174年)を権別当としたがその在任は4年の短期に終った。長兼の死後、別当職を受け継いだ湛快は、田辺に新熊野三所権現(闘雞神社)を勧請したことで知られる。湛快は、長兼が進めていた石田庄付近での王子社や宿舎設置といった在地支配を引き継ぐと同時に、大治2年(1127年)には牟婁郡芳益村(田辺市中芳養・芳養町)に見作田五町所官物を得て、所領経営に努め、これによって田辺別当家の財政基盤が確立された。これと並行して、新宮でも行範が新宮在庁として別当の代行者の職務に励む一方で在地支配を進めた。こうして、熊野別当家の勢力は熊野全域に拡大すると同時に、新宮と田辺に別当家の2つの家系が対峙する構図が出来上がっていった。 こうした熊野内部での別当家の勢力伸張の一方、外部に眼を向けると、湛快の在任期間中は、保元・平治の乱の時期でもあり、湛快は激動の時代を乗り切る舵取りを任されることになった。湛快は引き続き院や貴族の熊野参詣を受け入れ続けるとともに、平氏政権との結びつきを強めて、多くの荘園や所領を獲得して熊野三山の勢威を高め、日高郡にまで勢力を広げた。 また、この時期の特筆する事件として、甲斐国八代荘でおきた熊野本宮領荘園を国衙の官人が侵犯した事件がある。この一件は『長寛勘文』に詳しく記されたところであり、断罪の論争の過程で熊野三山が伊勢とは独立した祭神をもつことが公式に確認された点で意義深い。 こうして、12世紀を通じて熊野別当家は新宮家(長快次男流長範家)、石田家(長快三男流長兼家)、田辺家(長快四男湛快家)、佐野家(長快五男流範快家)、さらに那智執行家(行範次男流行誉家)といった分家を牟婁・日高両郡の熊野参詣道沿い各地に成立させると同時に、在地領主化を進め、別当権力を増大させていった。
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