新宮党の婚姻関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:37 UTC 版)
新宮党の党首であった国久の妻は多胡氏であり、娘が宍道氏と美作大河原氏と晴久の継室へと嫁いでいた。国久の嫡子誠久の妻は多賀氏の出身であった。尼子晴久の正室は尼子国久の娘でもあり、国久の一族の婚姻関係は非常に複雑であった。 しかし、その婚姻関係は尼子家中の結びつきを決定的にはできず、後に行われた第一次月山富田城の戦いでは、一族の宍道氏や姻族の多賀氏は尼子側から離反している。そして新宮党内も一枚岩ではなく、新宮党の党首の座や所領問題等で、尼子久幸嫡子の尼子詮幸が尼子国久と対立し、尼子誠久と尼子敬久兄弟ですら意見の相違が多く、誠久嫡子の尼子氏久は家督を巡り敬久とも不仲であった。 このような一族内での不協和音が尼子家の運命を左右することとなる。
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