文教地区への変貌と学生街の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 15:19 UTC 版)
「吉田 (京都市)」の記事における「文教地区への変貌と学生街の形成」の解説
明治元年(1868年)、吉田村は京都府に属することになった吉田村は、もともと大根・茶・菜種などの畑が広がる近郊農村であったが、1887年には京都府より会津藩下屋敷跡地の払い下げを受けて京都織物会社が設立されるなど、近代化の波が及ぶようになり、1889年には市町村制施行によりこの地区は京都市上京区に編入され「吉田町」と改称された。そして翌1890年吉田山西麓の字冠石(現在の吉田本町)の尾張藩屋敷跡地に第三高等中学校(のち第三高等学校)が開校したことで、吉田地区の景観は本格的に変化することとなる。さらに1897年、第2の帝国大学である京都帝国大学が第三高等学校からの校地の譲渡を受けて開校し、三高は代替の校地として近衛参道南側に移転すると、以降近隣の吉田地区ではこの2校が校地を拡充するとともに、学生のための貸家・飲食店・雑貨店が開業し学生街が形成されるに至った。1902年には京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)が現在の京大「西部構内」、1905年に精華女学校(現・京都精華学園中学校・高等学校)が現校地、1907年に京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)が現在の京都大学大学院「思修館」校地に開校・移転し、吉田地域は市内でも有数の文教地区となるに至った。
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