支持者の獲得と宮廷内の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:20 UTC 版)
「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の記事における「支持者の獲得と宮廷内の対立」の解説
1205年5月29日にアンドラーシュはセーケシュフェヘールヴァールでカロチャ大司教ヨハンから戴冠される。 アンドラーシュはイムレ以前の王が実施していた国内政策の方針を転換し、修道院、教会、貴族に王領や城を分配した。 土地を授与された貴族には子孫への土地相続が無条件に認められ、ハンガリーに大領主層が誕生した。村、領地、さらには州までも授与したため、国の収入が減少したため、代わりに貨幣の鋳造、鉱山の経営、課税によって収入を補おうと試みた。この結果、王に忠実な従者と貴族が新たな社会階層を形成し、旧来の大貴族や聖職者と争った。王に忠誠を誓う層の出現はアンドラーシュの地位を強固にしたが、後に彼らは王権を弱体化させる原因となった。 また、ゲルトルードはアンドラーシュが遠征でハンガリーを留守にしている時に彼女が連れてきた親族とドイツ系の廷臣を優遇したため、ハンガリー土着の貴族は不満を抱いた。ドイツ系の廷臣を優遇することを不満に思う貴族の一派が、ニカイア帝国の宮廷に移っていたアンドラーシュの従兄弟を新たな王に擁立する計画を立てるが、反対派が送った密使はアンドラーシュに逮捕され、計画は未然に防がれた。 アンドラーシュはハンガリーの南東部に居住するクマン人の襲撃に備えて、1211年にドイツ騎士団にトランシルヴァニアのプルツェンラント(英語版)を所領として与える。騎士団は植民活動とクマン人との戦闘に従事したが、ハンガリーの意図から外れて独立した領邦国家を形成し始める。
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