支払いの遅延、家庭内不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
「吉村秀雄」の記事における「支払いの遅延、家庭内不和」の解説
ヨシムラレーシング設立当初は順調であった。販売する製品は順調に売れ、ホンダ車に関してはシェアの50%あまり、Z1においてはほぼ独占的なシェアを誇っていた。1973年のデイトナはレギュレーションが変更されたため準備が間に合わず見合わせたが、同時に開催された最高速チャレンジやボンネビルで開催された最高速チャレンジへZ1、CB750Four、CB500を参加させ、12個もの世界記録を樹立した。同年9月にはフランスのル・マン、ボルドール24時間耐久ロードレースへ参加するシデム・カワサキへZ1エンジンを供給すると4台が完走し、2位を筆頭に4位、5位、7位を獲得した。 しかし次第に両名からは不自然な点が見られるようになってきた。運転資金のために企業立ち上げから数ヶ月送金がないことは理解できても、延々送金がないことに南海子は不信感を覚え、不二雄も高級車を購入するなど羽振りのよい2人を見て同様の疑念を持った。再三送金を迫るもついに売掛金の滞納は2000万を越え、南海子は吉村に詰め寄るも吉村は「俺がアメリカへ行けばすべて解決する」と、これを一蹴し、最終的に自分の意見に楯突いた南海子に勘当を言い渡した。当時、南海子は森脇と結婚し長女も生まれていたため、ひとまず森脇の実家のあった神戸市へ身を寄せ、1973年7月、三重県鈴鹿市でモリワキエンジニアリングを創業した。 1974年1月には秋川工場の土地も売れ、家財道具や設備をアメリカへ送り、渡米の準備が着々と進む中、吉村は準備を手伝うために訪れていた南海子達の前で突然喀血した。予期せぬ事態に入院を余儀なくされ、渡米は5月になったが、秋川の工場を清算した金から南海子と由美子に300万ずつ渡し、吉村はアメリカへ出発した。
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