撮影と中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 09:44 UTC 版)
「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」の記事における「撮影と中止」の解説
撮影監督にニコラ・ペコリーニ(英語版)を据え、撮影は2000年9月に始まった。最初のロケ地は、スペイン・マドリードの北部にある不毛の景勝地バルデナス・レアレスで、NATOの軍用地にも程近かった。このため軍用戦闘機が頻繁に頭の上を飛び交い、録音テープが使い物にならなくなったので、スタッフたちはポストプロダクションで後日アフレコする指示を出した。撮影2日目には鉄砲水に襲われて撮影機材が流出し、またこれによって崖の色が変わってしまい、それまでに撮ったテープは使えなくなってしまった。馬術に秀でていたロシュフォールは乗馬と演技に挑戦したが、その際に痛みが走り、馬から下りるのにも、歩くのにも助けが要るほどになった。彼はその後パリにいる主治医の元へ帰ったが、そこで2箇所の椎間板ヘルニアと診断された。スタッフはその後数日、ピエドラ修道院(英語版)でデップを映すシーンなど、ロシュフォールの出演しないシーンを撮影しようとしたが、時が経つにつれロシュフォールの降板は確定的になる。ギリアムはドン・キホーテ役のキャスティングに2年をかけており、ロシュフォールも7か月にわたる英語の勉強を行っていたため、ギリアムはこの事態を自身のプロジェクトに対する致命的欠陥だと判断した。最終的に制作は2000年11月にキャンセルされ、この映画が作られなかった顛末を描くドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラ・マンチャ』が2002年に公開された。
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