拾町村の成立と近世
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十町という地名は江戸期より見え、薩摩国揖宿郡指宿郷(外城)のうちで拾町村と表記された。応永18年の「島津元久袖判沙弥成璇寄進状」に迫田村との記載があり、迫田村は現在の十町の迫田に比定されている。 村高(石高)は「郡村高辻帳」では1,019石余、「三州御治世要覧」では757石余、「天保郷帳」では1,019石余、「旧高旧領取調帳」では898石余と記載されている。 二反田川沿岸では製塩業が盛んであり、塩田が広がっていたが天保元年より干拓が行われ、大規模な水田が開発された。
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拾町村の成立と近世
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拾町村という地名は江戸時代より見え、薩摩国頴娃郡頴娃郷(外城)のうちの拾町村であった。拾町村の成立までは枚聞神社付近の十町の区域は宮拾町と呼ばれていたが、宝永初期頃に宮十町の区域及び仙田村のうちの山崎、入野、物袋、脇浦及び開聞岳の裾回りの区域より拾町村が成立したとされる。 文政7年の「旧跡帳」には十町村の成立について以下のとおり記述されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}一 十町村 右古来より開聞宮之仕地十町方を「宮十町村」と相唱壱村之由候処宝永之砌此仙田村之内を右通差欠被召加「宮十町村」を「十町村」と村名被相替候付其後宮十町村と申は無御座候 —旧跡帳 村高(石高)は宮拾町として「天保郷帳」及び「郡村高辻帳」では1,060石余、拾町村としては「三州御治世要覧」では507石余、元禄11年の「頴娃村里改帳」では667石余、「頴娃郷旧跡帳」では1,173石余、「旧高旧領取調帳」には1,241石余と記されている。 明治時代になると十町村は大区小区制による小区となり、薩摩国頴娃郡第十七大区第十五小区となった。各村に戸長役場が設置されたが、1884年(明治17年)に頴娃郷の各村の戸長役場を統合し郡村(現在の南九州市頴娃町郡)に戸長役場が置かれた。
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