戦災・原爆と留学生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:59 UTC 版)
「南方特別留学生」の記事における「戦災・原爆と留学生」の解説
「広島原爆で被爆した東南アジア人」も参照 戦局悪化にしたがって留学生も戦災に遭うようになり、神奈川県相武台の陸士に入学したジャワ出身留学生の一人はアメリカ軍機の機銃掃射により死亡した。1945年に入って東京での空襲が本格化すると、戦災を避けて留学生を順次地方都市に移す措置がとられ、特に大学の場合、京都帝大が集中的に受け入れることとなった。しかし東京が空襲で壊滅した後には地方都市への空襲が激化したため、各地で留学生寮や受け入れ学校、国際学友会の施設が破壊され、行き場を失った留学生は再び焼け跡の東京に戻らざるを得なくなった。 特に1945年8月6日の広島への原爆投下においては、この時点でインドネシア出身者4名、マラヤ出身者3名が広島文理大・高師で学んでいた。彼らのうちある者は講義中の教室、あるいは市内大手町の萬代橋東詰付近にあった留学生寮(興南寮)において被爆した。行方不明になったマラヤ出身のニック・ユスフ(後に避難先の五日市での死亡が判明し、同町に墓がある)を除く留学生たちは元安川岸に避難し、比較的軽傷であった者は他の被爆者の救援に当たった。彼らは8月末に列車で東京に向かったが、サイド・オマール(マラヤ出身)が体の不調を訴え途中下車して京大病院に入院するも9月初めに死去、京都市内に埋葬された。
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