戦国・江戸時代の普門寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:17 UTC 版)
「普門寺 (豊橋市)」の記事における「戦国・江戸時代の普門寺」の解説
このように隆盛を誇った普門寺であったが、戦国時代になると、今川氏や戸田氏、牧野氏ら近隣の武士の争いに巻き込まれ、永正14年(1517年)には裏山に築かれた船形山城をめぐって今川氏と戸田氏が争った(船形山合戦)。そして天文2年(1533年)には兵火のため全山がことごとく焼失したという。 しかし戦国時代から江戸時代前期にかけて、かつての隆盛をとり戻すべく復興が行われた。1540年ころには、普門寺復興と地域社会の再結集を祈念して、船形山合戦などの一連の戦乱の戦死者を含む大規模な共同供養(三界万霊供養)が行われている。東三河・西遠江の広い範囲の地域から奉加者・供養者が集まり、地域社会の結集拠点として普門寺の再生が目指された。 その後も今川氏や徳川家康、池田輝政(照政)など代々の領主の保護を受け、少しずつ復興が進められた。慶長8年(1603年)には再中興の住持・龍祐のときに寺領朱印地100石が徳川家康より与えられた。そして17世紀後半の住持日誉・昶深のときに、仁王門、本堂など大規模な造営も行われて、ようやく今日につながる基本的な寺観が整えられた。 以来、観音霊場、源頼朝公所縁の地として、また江戸時代には桜の名所として、多くの参詣客を集め、厚く信仰された。
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