慶応期の活躍
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慶応元年(1865年)大坂にて目付に再任、翌慶応2年(1866年)には大目付になる。同年幕府より第二次長州征伐(のちに戊辰戦争の軍費にもなった)の軍費を賄うための軍役金上納制が始まった。この頃の帯江戸川家は表高は3000石であるが実高は5743石あり、単年度金収支は慶応元年で1221両の赤字(収入3407両、支出4628両)であった。慶応2年になると2287両の黒字(収入11588両、支出9301両)さらに慶応3年(1866年)は146両の黒字(収入13406両、支出13260両)となっている。しかし、軍役金の負担は慶応3年の時点で年1905両(軍役金1874両、練兵・弾薬費31両)と江戸屋敷・陣屋の生活費の1306両を遥かに超える高負担、且つ加えて目付・大目付と出世したため交際費も多額の負担だったにも関わらず慶応2年・3年が黒字だったのは米価が平年の8倍に高騰したからであり、戦時が財政を好転させたのは皮肉である。 慶応2年(1866年)、二日市村(倉敷市二日市)に学問所を設けて、医師・植田亮哉を教官に召抱。家臣や近郷の子弟を教育させた。 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いには慶喜を擁して大坂にいたが旧幕府軍が敗れたため朝敵となり、帯江知行所は岡山藩に陣屋・土地のすべてを没収された。同年2月、「挙正退奸の上書」を慶喜に出すほどの主戦論者の一人であったため、明治政府から官位差止めのうえ領地家屋敷を正式に没収・追放処分となる。
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