徹甲弾/曳光弾/焼夷弾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 14:46 UTC 版)
「.303ブリティッシュ弾」の記事における「徹甲弾/曳光弾/焼夷弾」の解説
徹甲弾と曳光弾は1915年の間に導入された。ジョン・ポメロイ設計の炸裂弾は、Mk.7.Yとして1916年に導入された。 ツェッペリン飛行船の脅威に対抗するために、いくつかの焼夷弾が1914年から個人的に開発されたが、1916年後半にブロックがBIK Mk.7.K13 を設計するまで採用はされなかった。海軍予備員でもあるブロック空軍中佐は、花火製造会社を経営するブロック家の一員だった。 これらの弾は、長い期間にわたって幅広く開発されたため、いくつかのMark番号を付与された。イギリス軍に採用された最後の曳光弾は、1945年のG Mk.8だった。そして、最後の徹甲弾は1945年のW Mk.1Zだった。そして、最後の焼夷弾は1942年のB Mk.7だった。炸裂弾は弾丸内部に充填できた炸薬が比較的少量だった為に、有効性が限られていたので、1933年以降はイギリスでは造られなかった。炸裂弾の役割はMk.6とMk.7焼夷弾で代替可能だった。 1935年に、機関銃で使用するために、.303 O Mk.1 観測弾が導入された。この弾丸は着弾すると爆裂して、射手に白煙を示すように設計された。もし必要なら、やはりMk.6とMk.7焼夷弾で代用することもできた。 第一次世界大戦の間に、イギリスの工場だけで.303弾薬を70億発、製造した。さらに他国でも大規模な生産が行われた。
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