彦坂光正とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 彦坂光正の意味・解説 

彦坂光正

(彦坂九兵衛 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/11 15:36 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
彦坂光正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄8年(1565年
死没 寛永9年2月29日1632年4月18日
別名 通称:八兵衛、九兵衛
戒名 護光院殿正宗居士
墓所 栃木県日光市山内の護光院
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康頼宣
駿河駿府藩紀州藩
氏族 清和源氏満政流彦坂氏
父母 父:彦坂成光、母:苅屋彦五郎娘
兄弟 光正、春光、政勝、近藤秀正室
松平助左衛門娘
重定、曾我古祐室、重長、松平忠貞室、青山成次正室

彦坂 光正(ひこさか みつまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士

生涯

永禄8年(1565年)、三河国の国人で今川義元に仕えた彦坂成光の嫡男として誕生。

今川氏の没落後、同族の彦坂元正[1]の仲介によって徳川家康の家臣・本多康重の同心となり、主に奉行として活躍した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどで功が見られる。慶長年間頃における東三河や尾張国での卓越した行政手腕が買われ、慶長14年(1609年)に井出正次と共に駿府町奉行に任ぜられた。城下の町方支配を初め、新田開発、伝馬制度の確立、寺社領の寄進や年貢取立てなど多岐にわたっており、後には伊豆国近江国なども任されることとなったという。

地方行政官としての活躍もさることながら、岡本大八事件大久保長安事件などでは調査や処罰などを受け持ち、大坂の陣での口実になった方広寺の鐘銘を作った文英清韓を拘禁するなど、多くの政治的事件に関わった。また、この頃に拷問法の一つである駿河問い(駿河問状)を考案したとされる[2]

家康の死後は駿府町奉行職が廃止されたこともあり、2000石余から、3000石に加増されて安藤直次らと共に当時駿河国駿府藩主であった家康の十男頼宣の家老となった。後に頼宣が紀伊国和歌山藩に移封されると、これに従い年寄衆を勤めた。紀州東照宮の建立などでの活躍が見える。

寛永9年(1632年)2月、年寄職を致仕して和歌山を去り、天海に依頼して家康の眠る日光東照宮へ入ったが、直後に急死した。自害したとも伝わる。

脚注

  1. ^ 光正の祖父・重清の弟が元正の父の光景。
  2. ^ デジタル大辞泉



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「彦坂光正」の関連用語

彦坂光正のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



彦坂光正のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの彦坂光正 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS