式典の神様
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 10:16 UTC 版)
松沢は明治神宮競技大会で式典の演出を担当し、その巧みさから「式典の神様」の異名を持っていた。この実績から1958年アジア競技大会(東京で開催)で式典部長を務め、光を使った演出で別れの雰囲気を創出し、国際オリンピック委員会委員(IOC委員)を驚かせ、1960年ローマオリンピックの閉会式は、松沢の演出法を模倣したものとなった。アジア大会閉会式の成功の裏では、中華民国の国旗を上下逆さまに掲揚するという痛恨のミスを犯し、松沢は日本体育協会の要職を降りる決意を固めるが、娘の洋子に「戦死した教え子が東京オリンピックを待っている」と諭され、1964年東京オリンピックの式典演出という要職を引き受けた。 松沢はまず、ユーラシア大陸横断聖火リレーを提案したが、国際情勢からこれは実現できなかった。開会式は厳粛かつ整然と行われて各国の評価はよかったものの、松沢にとっては学徒出陣の光景を想起させるものだった。閉会式でサプライズ演出を目指していた松沢は、成功の鍵は1人でも多くの選手に閉会式まで残ってもらうことだと考え、選手村での男女の往来を一部解禁したり、大会中に独立を果たしたザンビアを祝うパーティを開いたりして選手を喜ばせた。こうして準備を整えた松沢は、男子マラソン勝者のアベベ・ビキラに続いて、選手が国も性別も超えて一団となって入場するという演出を行い、のちにこれは「東京式」と呼ばれるようになった。成功裏に終わった閉会式からわずか2か月半後、松沢はこの世を去った。
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