廣田の研究の評価
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1908年(明治41年)に文部省は全国の教育会や師範学校に対して「小学校低学年で教える数の範囲の拡張」について諮問した。廣田はこれを「われわれ小学校教員の研究の実験の結果によるものだ」と勝利宣言した。廣田は「数の拡張は既に社会の世論であります。小学校教員の声であります。社会の世論、教員の声は子供のできるということを証明しているものであります」と述べている。 1910年(明治43年)に改訂された国定算術書では、低学年で教える数の範囲が拡張され、1年生では100以下、2年生までは1000以下の数が教えられることになった。聚楽式では2年生は1万以下の数を数える事ができる事が証明されていたので、廣田にとってはこの改訂は不十分と言えるものだった。しかし、部分的にしろ「小学校教員による研究成果がもとになって教育内容を改めることに成功した」ことは日本の教育史上特筆すべき出来事とされる。 また科学史家であり仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣は「日本の教育史上もっとも先駆的な、現場教師の研究の自由についての訴えを行った人物」としている。 また、廣田は「自身の実験的研究の成果に基づいて国定教科書批判を行ったり、教育法令の改革を迫る発言をしていた」という点で「実験的な教育研究の先駆者」であるという評価もある。
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