庶民院書記官から政界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 06:05 UTC 版)
「ジェレマイア・ダイソン」の記事における「庶民院書記官から政界入り」の解説
1748年2月10日に庶民院議長(英語版)アーサー・オンズローが庶民院書記官(英語版)ニコラス・ハーディング(英語版)の引退を発表すると、ダイソンは6,000ポンドで庶民院書記官の官職を購入、5日後にダイソンの任命が発表された。一官職に6,000ポンドを支払うのは大金だったが、庶民院書記官には書記官補佐など下級書記官の任命権があったため、それらの官職を売却することでいくらか金が返ってくるという仕組みであり(例えば、書記官補佐(clerk assistant)は3,000ポンドで売れるとされた)、当時はすでに慣例となっていた。しかし、ダイソンはこの慣例を批判し、金銭上の考慮を一切せずに能力に基づき下級書記官を登用した。書記官補佐にはジョン・ハットセル(英語版)が任命され、ハットセルは謝意として、後年に出版した『議会特権判例集』(A Collection of Cases of Privilege of Parliament、1776年)をダイソンに献呈した。 ダイソン在任中の特筆すべき事柄としては、1751年に私法案(private bill)の手数料に関する覚書を出し、手数料の計算法を制度化したほか、ウェストミンスター宮殿の敷地内に庶民院書記官の官邸を設けようとしたことが挙げられる。 1760年にジョージ3世が即位すると、ダイソンとエイケンサイドは揃ってトーリー党に転向し、ダイソンに至っては1762年8月に政界入りを準備して庶民院書記官を辞任、12月にワイト島のヤーマス選挙区(英語版)で行われた補欠選挙に立候補して当選した。庶民院書記官の辞任にあたって、就任時の官僚任命と同じく売官を拒否、以降それが慣例となった。 1761年10月13日から11月25日までの短期間に王璽尚書委員会の委員を務めた。
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