平島公方家からの将軍とは? わかりやすく解説

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平島公方家からの将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 09:36 UTC 版)

平島公方」の記事における「平島公方家からの将軍」の解説

長の遺児孫次郎長慶長い歳月をかけて亡父以上に勢力伸ばすと、終には晴元追い落とし幕府相伴衆上り詰めた実質幕政中枢握った等し事態である。その間平島公方血統三好氏庇護受けていたが、将軍への道は拓かれずに過ごしていた。 やがて、長慶死去に伴い三好氏では三好三人衆による指導体制移行されたが、幕政からの三好氏排除目論む13代将軍・足義輝への対応に苦慮するようになる困り果てた末に、永禄8年1565年5月19日には二条御所襲撃義輝将軍弑逆するという暴挙出た永禄の変)。将軍辞任を迫ることがあっても、命を奪うまでの行為言うなれば禁じ手であったが、三好領内に居をかまえていた平島公方足利義維足利義栄)の存在実行踏み切らせた一大事件でもある。 新し公方迎えられる当たって堺公方消滅時には20歳余と若かった義維は病気のため除外され、その長子義親左馬頭叙任され、義栄へ改名)が擁立された。ところが、三好三人衆松永久秀との内部権力抗争明け暮れ、義栄の将軍就任への働き疎かにした。 実際に義栄が将軍就けたのは、永禄11年1568年2月8日であった若狭越前朝倉近江六角など反三好勢力京都周辺には残っており上洛できなかったのが就任の遅れ(朝廷がなかなか許可しなかった)に強く影響したものと思われる前将軍義輝襲撃から、2年半以上の歳月流れていた。しかもその後も、義栄の入京儘ならず将軍宣下受けても、なおも摂津国留まり続けていた。患っていた腫れ物悪化させていた事も影響した、との説もある。

※この「平島公方家からの将軍」の解説は、「平島公方」の解説の一部です。
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