幕臣 山本氏
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『寛政重修諸家譜』によると、山本勘助の曾孫である山本九郎兵衛正重は、寛永12年(1635年)に御持筒与力に召し出され、後に小十人(250石)に列した。石高から推して、馬上となり小十人の組頭を補佐していたものと思われる[要出典]。また同氏は、三河発祥であるとしている。 『断家譜』によると、上記の山本氏の別家となる山本氏が存在し、大番等を勤めた250石の家柄であったが、宝暦11年(1761年)に当主が逐電したため、断絶している。この当主(山本辰之助)は山本勘助から数えて8代目となる。 同『寛政諸家譜』巻第132、清和源氏義光流山本氏は山本四兵衛正直の代より岡崎城主松平清康・広忠に仕え、西三河出身。また、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際に土呂籠城の衆に山本四平・山本才蔵・山本小次郎があり、徳川家康に敵対した。このように古くから西三河にも近江源氏系(山本冠者義経子孫)など、前掲の駿河出身とは異流の山本氏があり、松平氏(徳川氏)の家臣となるものもいた。
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