工事(第二期)と操業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 15:01 UTC 版)
完成前の1945年(昭和20年)1月12日地下壕増設が決定。工事は引き続き佐藤工業と新たに大倉土木(現大成建設)が請け負った。そのほか海軍工作学校の練習生が参加した。工事は終戦まで続いた。工事には第一期と同様、朝鮮人労働者が用いられたが数にはばらつきがあり、朝鮮新報では2,000~6,000人としているのに対し、『秘密地下工場 中島飛行機浅川工場』では最大7,000人が動員されたという説があるとしているが、掘削に当たったのは佐藤工業500人(家族を入れて1,500人)、大倉土木100人、青木組500人の合計2,100人としている。1945年(昭和20年)6月現在、南多摩郡には2,800人の朝鮮人がいたとされ、妥当な数と著者の斎藤は判断している。また、陸海軍から人員が動員されていたため、前述のような数千人も動員されていないと記述している。 同年6月に武蔵製作所から機械の搬入が始まり、約300台の機械が持ち込まれ、4,000人体制で7月から工場は稼働した。しかし、湿気による機械の腐食と10度台という地下壕内の気温により、体調を崩す工員が多く、生産性は低かった。8月2日にはアメリカ軍により八王子空襲が実施されるが、地下壕の存在は判明しておらず、被害はなかった。
※この「工事(第二期)と操業」の解説は、「浅川地下壕」の解説の一部です。
「工事(第二期)と操業」を含む「浅川地下壕」の記事については、「浅川地下壕」の概要を参照ください。
- 工事と操業のページへのリンク