山本新田の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 04:43 UTC 版)
宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・湖沼跡に広大な敷地ができたが、そのうちの万願寺集落近傍・南北約3kmほどの新田の開発権利を、山中庄兵衛正永・本山弥右衛門重英 両名が落札し、新田開発を請け負った。新田名・地名は両名の名字から取られている。 宝永2年(1705年)に工事が完了、宝永5年(1708年)の検地をもって正式名称が確定した。万願寺集落の西側・立石街道沿道に、玉串川との交差部・山本橋を中心にして、南東に山本新田会所、南西に山本八幡宮、主に北側に十数軒の農家をもって「山本新田」集落ができた。 当地は元々は川床であり、水持ちが悪く、米作には向かなかった。反面、綿の作付けに向いていた。もともと中河内地方は綿作りが行われており、新田開発を期に大発展していく。 享保9年(1724年)に大坂の大火で、本山の商家である「加賀屋」も焼失し、新田を抵当にしていた融資が返済できず、享保13年(1728年)に融資元である「泉屋」の住友吉左衛門に新田を譲った。以来、この地は昭和15年(1940年)9月まで住友家(住友財閥)の所有であった。
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